
リトアニアに行くまで杉原千畝の名前を知らなかった。
正確に言うと、首都ビリニュスから、
知人のカメラマンが住んでいた第二の都市カウナスに到着するまで知らなかった。
「東洋のシンドラー」と呼ばれた外交官である。
1939年、
杉原千畝は、フィンランドはヘルシンキの日本公使館から、カウナスの日本領事館領事代理になって赴任してきた。
その翌年、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアにユダヤ人が大量に逃れてきた。
各国の領事館、大使館からビザを取得しようとしていたのである。
しかし、反ユダヤだったソ連がリトアニアを併合したため、状況は一変する。
各国の領事館、大使館を閉鎖するよう要請し、次々とそれに従っていった。
そこでユダヤ人難民は、業務を続けていた日本領事館に殺到した。
杉原千畝は、すぐに外務省にビザを発給許可申請する。
しかし、許可されなかった。
日本領事館が閉鎖されるまで約2ヶ月。
彼は決断する。
外務省の命令に反して、ユダヤ人が亡命できるようビザを発給し始めたのである。
彼の奥様も手伝って、黙々とビザを作成し続けた。
領事館が閉鎖されるまでに2000以上の家族を救ったと言われている。
その後、杉原千畝は、チェコ、ドイツ、ルーマニアの領事館を転々とした後、
第二次世界大戦終戦。
ブカレスト郊外の収容所に収監され、帰国した。
命令に背いた彼には外交官としての居場所はなかった。
約30年後、当時、救われたユダヤ人達が杉原千畝を探し始める。
そして、モスクワで働いていた彼を探し当てた。
その後、彼の「人間愛」が再評価され、世界中に知れ渡った。
彼が生まれ育った加茂郡八百津町にできた記念館で、
憑いていた信長に杉原千畝のことを説明するが興味なさそうだった。
一応、八百津町の正傳寺に、
信長の書状が残っているらしいことを伝えるが、
「そんなもの、いちいち覚えておるわけなかろうが...」
可愛げのない返事をするのみである。
切り上げて、喫茶店に向かうのだが、
車で来ていた為、
八百津の街中にある喫茶店では、
駐車場がうまい具合に見つからず、
街から少し離れた駐車場のある喫茶店に立ち寄った。
16時頃の中途半端な時間にも関わらず、
20名程の客席は、ほぼ地元の人で満席である。
アイスコーヒーとこの店自慢のシフォンケーキをいただく。
麦わら帽子を被った農作業帰りらしき男性、
市場のおじさまが被っているようなキャップの男性など
やたら帽子率が高い、高齢者の方が多い。
ふと、杉原千畝も、この地に戻ってきていたら、
この高齢者のように喫茶店で、
穏やかに暮らしたのだろうか。
彼は英雄として脚光を浴びた後、
モスクワから日本に戻ってきたのだが、この地に戻ることはなかった。
神奈川県鎌倉市で暮らし、86歳で亡くなったそうだ。
